昭和55年11月24日 朝の御理解
御理解 第31節
「信心する者は、木の切り株に腰をおろして休んでも、立つ時には礼を言う心持ちになれよ。」
木の切り株に腰を下ろしてもお礼をいう心持ちと。だから只なにをどういう事にでもどういう物にでも、お礼をいわねばならぬというのではなくて、その心持ちを作れと教えられておるんだと思うね。或る人がもう本当にこの御理解を頂いて、もうせめて自分が乗ってくる自転車だけには必ず、乗って来たらお礼をもういおうと思って、心掛けておるけども降りてしまって、あら又お礼をいうと忘れとったと、もう不思議に忘れるという事をいうた人がありました。皆さんどうでしょうか。
お礼をいわねばならん成程話を聞けば、一切のものにお礼をいわねばならん、道理も分かるんだけれどもそれこそ迂闊にして忘れておる。何かの調子にちょっともうあら又忘れておったという事になる。だからお礼をいわねばならんというのではなくて、お礼をいう心持ちを、先ず作らねばならんという事になります。初めて家内の里でお餅を食べた人がこれは何というものですかち、これはぼっちというもんだと。私どんな子供の時にはお餅の事を、ぼっちぼっちというとりましたがそんな話をして貰ってました。
そりでその人は家に帰って又、そのぼっちというものを作って貰おうと思うて、忘れてはならんと思うてね、「ぼっちぼっちぼっち」というて帰りよった。ところが山を越え谷を越えして行っておる中に、谷を股がる同時に「どっこいしょ」ちいいうてから谷を飛んだら、そこからいつの間にか「どっこいしょどっこいしょ」というて帰ったという。これは笑い話ですけれど本当ですよ。自転車に降りたら必ずお礼をいうと決めておって思うておっても、皆さん実行してみてご覧なさい確かに忘れますよ。
どこかで忘れとるです。ほかのそれこそ“どっこいしょ”になってしまっておるです。だからねぇいわねばならんじゃなくて、いわずにはおれん心持ちを作る事が先なんだ。心持ちを作る精進を、信心すれば何でも拝んで頂かにゃならん。拝まにゃならんというのでなくてね。それが例えばまぁ皆さんが食事をなさる時にゃ、必ず御神訓を唱えてそしてから神様頂きますをいう。ところがねこれはもうその癖になってしもうとるからね、その癖になったんじゃいかん訳ですよね。
いわずにゃおれない、その心持ちを作るというところに信心がある。どういう信心をさせて頂いたら、もう本当に全てのこれはものだけではありません。木の切り株と仰せられますから、まぁいうならば一番いらんもの不要なもの、いやむしろ邪魔になるもの、これはなら事柄でもそうです。自分の都合のいい事ばっかりあれば「有り難うございます」がいえるんですけれども。
都合の悪い事になると「有り難うございます」じゃなくて、不平になり不足になる。だんだん御理解を頂いて参りますと、一切が神愛といわれるのですからね。嫌な事柄嫌な問題でも、実はね嫌と思うておったのが、人情で見たり聞いたりするから、嫌であったり腹が立ったりするのである。神情をもっていうなら「肉眼をおいて神眼を開け」と仰せられますから、神眼をもって見るとお礼をいわねばおれないという事なのです。
昨日一昨日、日田の支部長であります、綾部さんがあのウお届けにみえました。もう以前にあちらの沢山番頭さんが居る酒屋さんでおりますから、その番頭さんがどこかの自動車に追突をしておった。それが夫婦ともこの人が不具者の方らしい。そしてまぁいろいろ一応はすんどったらしいけれども、まぁ家庭保護を受けておる程しの方達だったそうですけれども、そのう毎月二十万か三十万か、そのう保険ですかね、何か出るようになったら家の保証をまぁ受けておった金が入らなくなった。
というて今度は遊び人を使って、まぁその金を先ずもう大きな金ですもん。その出すようにまぁいうて来られた。しかもヨゴレですからね。もうとにかくそれを否をいうごたるなら、不具者同盟があるそうですね、不具者ばぁっかりが丸亀の前に座り込むばするち。それは私はそん時にすぐ思いましたち。この頃の十三日会の時に、文男先生がいっておられた「もう合楽理念の根本というのは、もうそれこそ郵便ポストの赤いのも電信柱の高いのも、みんな私が悪いのだという頂き方が、合楽理念の根本だ」と。
自分もこの頃から追突されましたけれども、相手に要求する事もなければ、これは追突されなければならない元が、あるから追突されるのだからという頂き方。「結局郵便ポストの赤いのも電信柱の高いのも、みんな自分が悪いのだ」という頂き方。それが真からこの頃お話を聞いた時に、日頃の文男さんの信心を知っとられますから、成程あそこに文男さんがおかげ頂きなさる元があるなぁと、呉服屋さんなんですおかげ頂いてます。もう本当に必要なものは必要なものが。必要な金は必要な金が本当に集まると。
自分でも皆んなに発表して話す程しに間違いなく、大きなお店という訳でもない。一人でぼちぼちやってる呉服屋さんですけれどもおかげ頂いておる。さぁ手形がおてんの行かにゃお金が足らんちいうことがない。ここの御造営が十三年前に始まりました。そん時にゃまだ自転車で後に小さいあの呉服物を入れる籠を、結つけて廻るといったようなところからね、単車で廻るようになり、最近ではもうそれこそ立派な自動車に乗って、立派なお得意さんの所を廻らせて頂くようなおかげを頂いてきておる。
今ならともかくだけども、十三年前のそんな初めて、しかも自分が商売人でもないのが呉服屋さんといゃ難しい商売ですね。その難しい商売に取り組んで、ただ信心で一途にもう信心の、いうならば何と申しますかね、人が十銭で売るものは、八銭でという生き方を、身をもって徹底して行った人なんです。そうしてここの御造営が始まる時に、当時の百万円というのは、大きかったですね。今の百万円は大した事はないけれども、十三年前ですからね。
例え五年、十年かかっても、どうでもひとつ百万円のお供えをしたいというてお取次ぎ頂いて、その念願が五年かかってもというておったのが、ここの出来る時には全部お供え完納しとりました。お繰り合わせ頂いて以来というものは、お金に不自由しないちゅうね。必要な時には必要なおかげが頂かれる、いわゆる金銭の徳を受けたんですね。昔から使うて減らぬ金百両という。使うても使うても百両の金はある。百両の徳を受けたんですね。ならその根底にはどういうものがあるかというと。
まぁだ合楽理念などという前に、合楽理念をいい出した時に文男さんがいっておりました。そうです他所にお話に行ってから。私は合楽理念合楽理念というてから、親先生があぁいわれるけれども、合楽理念を説明せろというても分からんけれどもね、「合楽理念とはどういう事ですか」というて聞かれる。これは十年前の合楽理念が五、六年になりますかな、六、七年にもその時分の話なんですね。私は言葉でどげんち説明はでけんけれども、私の生き方を見て下さいという。
私の生き方が合楽理念という訳。確かにそうなんですそういう人なんです。そしてその合楽理念の根本になるものは、例えばなら追突されてもね、いわば追突されねばならないものはこちらにあるんだと。郵便ポストの赤いのも電信柱の高いのも、みんな私が悪いんだという、この根本姿勢というものを貫いておるという話を、この頃十三日会の時しておりました。それを綾部さん聞いておられたから、もうねそういう様ないうなら何と申しますかね、横車を押してくるというでしょうか。
まぁ無体な事をいうて来た時に腹が決まったちいうんです。こりゃこういう因縁をつけられねばならない元はこちらにあったね。だからあのうあぁ達のいうておる事は分かったと。けれども私しゃあの合楽の金光様へ日々お参りするから、その事も恐らくはあぁ達のいう通りにせろといわれるに違いないけれども、お取次ぎ頂いてお届けをして又話を聞かせてもらおうというて参ってみえたんです。腹が大体決まっておったけれども、もうあちらのいいなりになろうと腹を決められた。
昨日お礼にみえられて、それが又話がこう逆転してから、大変都合の良い方に話がなっております、とこう昨日はお礼のお届けでした。問題は腹ですね。いうならそういう心持ちを作ったんです。合楽理念に基づくとですねあちらが因縁つけてくる。因縁をつけられなならない元は、こちらにあるんだという頂き方なんです。そういう心持ちなんですね。だからそういう心持ちを作る。木の切り株に腰を下ろしても、立つ時には礼をいうような心持ちを作れと。
木の切り株に腰を下しても立つ時には、お礼いわんならんよという教えじゃないんです。そういう心持ちを作れなのです。はぁ今日はもう電車に乗ってから降りる時にゃ電車様有り難うございます、自転車に乗ったら自転車様有り難うございます、とお礼ばいおうと決めておっても、ちゃんと乗って降りる時には忘れとる。それが途中でどっこいしょになってしもうとる。心持ちを作っとらんからそうなんですね。そこで私は一番心持ちを作る手立てとしては、合楽理念でいうところの土の心になる事だと。
私はこの今この御理解を頂いてね、本当どういう心持ちになったらいいだろうかと思うたら、あのう丁度干天が続いたら、あのう田圃やら畑やらこう引き割れたようになるでしょう、あぁいう状態を頂いたです。ははぁこれにお湿りを受けて、それこそしっとりとして大地が濡れておるような、心の状態になる事だなぁと思うたね。自分の心がねしっとりというなら黙って治めるとか、土の心でというならばそういう生き方を、いよいよ身に付けていくという事。
これならば自分が本気になっ時にゃ決して忘れんですね。土の心でいこうと腹を決めてね、それこそここはひとこといいたいけれども、黙って治めるという生き方を身に付けていく。はぁいわんでおって良かった黙っておって良かったと。それがもう心にお湿りを受けた大地のような心なんです。だからそういう土の心を自分の心とするような生き方をいよいよ身に付ける手立て。
それが取りも直さずね、いうならば全ての事にお礼のいえれる心持ちが、そのようにして育って来るんです。そういう心持ちになったら、成程今まで気が付かなかった、もう当たり前のように思うておったものの中に、お礼のいわねばおれん事の多い事に又びっくりする程です。これは物だけではありません事柄だけではありません。一切の事の中にですねお礼をいわねば。いうなら普通信心が薄かったり無かった時には。
はぁ難儀な問題だ困った事だというておってた事の中にでも、改めてお礼をいわなければならない。過去の一切が生きてくる、そしてまぁたこれからも生きてくる。そういう心を活かしていく手立て、いうならそういう心持ち、礼をいうその心持ちを先ずは作る。礼をいわねばならんというのではない、礼をいわねばならない心持ちを作るという事が、先ず先決だという事がいえますですね。
どうぞ。